プノンペンのダークツーリズム~トゥールスレンとキリングフィールドへ

日本からの直行便も就航し、ますます行きやすくなったプノンペン。

最近では、アンコールワットへの経由地としても利用され、日本人観光客も多くなりました。

発展著しいプノンペンですが、暗い過去も背負っています。

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ダークツーリズムとは?

ダークツーリズムとは、戦災や災害跡地、虐殺現場や収容所、強制労働など、死や悲劇の生じた現場をめぐる観光のことをいいます。

元々はイギリスの研究者が用い始めた言葉のようですが、あえて訳せば「暗い場所への旅」とか「闇を見る旅」といったところでしょうか。

この言葉が日本でメジャーなったキッカケは、東日本大震災後です。

日本の思想家らが『福島第一原発観光地化計画』や『チェルノブイリ・ダークツーリズム・ガイド』といった一連の著作を発行しました。

2016年には、『世界ダークツーリズム』なる本も刊行され、「アウシュヴィッツ」や「サラエボ」などが紹介されています。

そして、ワタシが良く参考にさせていただく、「歩くバンコク」シリーズなどを監修されている下川裕治さんも、南京、ハルビン、ハノイについて寄稿されています。

モチロン、観光は娯楽ですし、明るいイメージの趣味です。

でも、少し考えてみると、人間が築いてきた歴史と文化の過程には、必ずしも明るいことばかりではないというのは、歴史の授業でも習いましたよね。

明るい部分だけに眼を向けず、それとともに背負ってきた暗い過去にも同じように眼を向けようという観点から、戦跡、慰霊碑、津波や震災の被災地、事故現場、大量虐殺のあった場所などがダークツーリズムの対象として注目されているのです。

プノンペンとダークツーリズムの関係は?

プノンペンとダークツーリズムの関係を理解するには、まず、ポル・ポトという人物と、ポル・ポト派が行った政治について知っておく必要があります。

ポル・ポト政権とは?

1975年4月から3年8カ月に及びカンボジアを支配した、ポル・ポトを指導者とする急進的な共産主義政権のことです。

カンボジアにおいて、ポル・ポトを指導者とする急進的な共産主義・民族主義グループである赤色クメール(クメール・ルージュ)は、シハヌーク派と協力して、1975年4月に親米右派のロン・ノル政権を追い出し、カンボジアの実権を握ります。

国家元首はノロドム・シハヌークでしたが、翌1976年は実権を奪い、シハヌークを軟禁状態において、ポル・ポトの独裁権力のもと、急進的な共産社会化が強行されたのです。

ポル・ポトとは?

ポル・ポト(Pol Pot)はゲリラ名で、本名はサロット・サルと言います。

彼は1925年、フランス保護国時代のカンボジアの貧しい農家に生まれました。

1945年に日本軍が去った後、カンボジアではフランスからの独立運動が激しくなり、ポル・ポトも政治活動に参加します。

しかし、シハヌーク国王はフランス寄りの政策を採り、独立派を弾圧したため、失望した学生指導者たちはカンボジア政府からの奨学金でパリに留学していきます。

1949年、ポル・ポトもにフランスに留学し、パリでカンボジア学生のマルクス主義研究会に参加するなどした後、1953年に27歳でプノンペンに戻ってきます。

1955年に総選挙で圧勝したシハヌークは、共産勢力に対して厳しい弾圧を行っていきますが、ポル・ポトらは、1960年にプノンペンで密かにカンボジア共産党を結成します。

ポル・ポト派は、ベトナム戦争が激化する一方、シハヌーク政権打倒を目指してゲリラ活動を続けながら、農村に基盤を築き、反政府の武装蜂起を開始します。

1970年、反米の姿勢を強めながら農民蜂起を弾圧するシハヌークは次第に孤立し、親米右派のロン・ノルのクーデターによって北京に追いやらてしまいます。

ポル・ポト派は、ロン・ノル政権打倒を目指し、政府軍と激しい抗争を行います。

この間、ポル・ポト派は農村で解放区を作り、政府の重税から農民を解放し、規律ある行動をとったため、農民からの強い支持を受けるようになっていきます。

1973年、ベトナム戦争のパリ和平協定が調印され、アメリカ軍はベトナムから撤退、カンボジア領内にいた北ベトナム軍も大半が撤退します。

それを待っていたかのように、アメリカは、ロン・ノル政権を支援するため、カンボジアの「解放区」への大規模な空爆を開始し、カンボジアの農村部は莫大な被害を受けてしまいます。

ロン・ノル政府軍とアメリカ軍の空爆に耐えたポル・ポト派は、さらに組織の規律と結束を強め、農村部を基盤とした政権を樹立する計画を進めていきます。

ポル・ポト政権の樹立

1975年4月17日、ポル・ポト派はついに首都プノンペンを制圧し、ロン・ノル政権を倒します。

ポル・ポト派は、国家元首には国民に一定の人気のあるシハヌークをかつぎ、ポル・ポトは首相に就任しますが、すぐにシハヌークに自宅軟禁状態にされ、ポル・ポト派の独裁政治が開始されます。

4月17日のポル・ポト派による解放をプノンペン市民は大いに歓迎しますが、ポル・ポト派が翌日に出した命令は、すべての市民に対する市街退去命令でした。

ポル・ポト政権の政策は、農業主体の共同社会を建設し、通貨を廃止し、学校教育を否定するなどの極端な原始共産制の実現を強行しようとするもので、反対派に対する激しい弾圧を行っていきました。

この極端な政策の実現のために実行されることはすべて「組織」(カンボジア語で「オンカー」)が決定したことであって、個人はすべてそれに従わなければならない、とされ、人権と自由は否定され、共産主義の理想からはかけ離れたものとなっていきます。

特にロン・ノル政権やシハヌーク派の官僚、教員やマスコミ関係者などの知識人がまず標的にされますが、のちに、プノンペンなどの都市住民の多数も農村に送られ、集団農場での労働に従事させられてしまいます。

移住に抵抗した者は強制収容所に送られ、社会的に不用なものとして次々と殺害されていき、犠牲者数は、ある推計では3年8ヶ月で150万人以上とも言われています。

こうした犠牲者が収容され、拷問されたのが、プノンペンのトゥールスレン刑務所です。

高校の校舎を改造したこの刑務所には、記録が残っている2年8ヶ月間だけでも約2万人が投獄され、電気ショック、ムチ打ち、生づめはがしなどの拷問を受けました。

これらは、当時はまったく公にされることはなく、世界に知られることもありませんでしたが、ベトナム軍が侵攻し、1979年にポル・ポト政権が崩壊すると、その実態が徐々に知られるようになっていきます。

トゥールスレン刑務所跡は、現在はトゥールスレン博物館として公開され、当時の記録や写真などが展示されています。

このトゥールスレン刑務所に収容された人々は、拷問などののち、プノンペンから南西に約15km離れたチェンエク村に連行され、処刑されました。

この地は俗に「キリング・フィールド」と呼ばれていますが、このような残虐場所はカンボジア全土に300カ所以上確認されているそうです。

ポル・ポト政権の崩壊

ポル・ポト政権は資本主義経済を完全に否定し、国際的に独立独歩の姿勢を示しましたが、外交では親中国の立場をとり、中国もポル・ポト政権を公認します。

国際連合も、ロン・ノル軍事政権を倒して成立した民主的な政権と捉えて、ポル・ポト政権下のカンボジアを正式な国家として認めていました。

しかし、隣接するベトナムやそれを支援するソ連との関係は悪化していきます。

1977年、ベトナムのタイニン省の領有を主張するカンボジアは東部国境軍を越境させ、両国の国境紛争は深刻化します。

そして翌年の1978年末、カンボジア軍が南部国境で国境を侵犯したことを理由にベトナム軍がカンボジアに侵攻し、国境紛争は一気に両国の戦争に発展してしまいます。

強権的な内政で民衆の支持を失っていたポル・ポト派カンボジア軍は後退を余儀なくされ1979年1月7日、首都プノンペンはベトナム軍に制圧され、ポル・ポト政権は崩壊します。

カンボジアの内戦

その後、ポル・ポトは再びジャングルに身を隠して抵抗を続けることになります。

1979年初頭、ベトナム軍に支援されたヘン・サムリン政権が成立すると、プノンペンから脱出したシハヌークは、北京から、共産勢力のポル・ポト派と共和派のソン・サンに、反ベトナム・反ヘン・サムリンでの共闘を呼びかけ、1982年にシアヌーク派、ポル・ポト派、ソン・サン派の三派連合政府が樹立され、内戦はさらに続きます。

その後、1986年、ベトナムは、経済改革をめざすドイモイ路線に方針転換を行い、カンボジアのヘン・サムリン政権への軍事的・経済的支援を弱めていきます。

一方、シハヌークは三派連合政府でのポル・ポト派との考え方の溝が埋まらず、ヘン・サムリン政権に接近するようになっていきます。

こうして紆余曲折が続き、次第にポル・ポト派は孤立していくのです。

カンボジア内戦の終結

1989年、ベトナムは、カンボジアからの軍撤退を表明し、1991年10月、パリでカンボジア和平協定が調印されました。

しかし、ポル・ポト派は、調印での同意事項も守ることなく、なおもタイ国境付近でゲリラ活動を続けていきます。

和平協定によってカンボジアを暫定的に統治した国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC)の監視の下で、1993年に総選挙が実施され、シアヌーク支持派が第一党となり、新憲法が制定され、9月にカンボジア王国が成立しました。

ポル・ポト派の消滅

カンボジアをめぐる国際情勢の変化の中で孤立したポル・ポト派はジャングルの中で脱落する党員が続出し、猜疑心にさいなまれたポル・ポトは、1997年に自らの右腕として働いていたソン・センを、家族ともども親衛部隊に射殺させました。

しかし、かえってそれが派内の反発を受け、参謀総長のタ・モクによって拘束され、失脚してしまうのです。

その後、1998年に幹部らが次々と投降し、ついに1999年、参謀総長のタ・モクも投降して、ポル・ポト派は消滅します。

ポル・ポトの死

ポル・ポトは1998年にジャングルで、心臓発作によって死亡したと伝えられています。

ですが、その死には不可解な点も多く、遺体は死の翌日、火葬にされてしまいました。

今では、その死因も、ポル・ポトが大虐殺にどれだけ関わっていたのかも、永遠に謎のままとなってしまいました。

分かっていることは、ポル・ポトがカンボジアの政権を握ってから、わずか3年8カ月で国の人口が3分の1にも減少し、300万人以上が惨殺されたことだけです。


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プノンペンのダークツーリズムは?

プノンペンのダークツーリズムは、これらポル・ポトを指導者とするクメール・ルージュが行った数々の殺戮の場所を訪ねることです。

これからご紹介する2つのスポットは両方とも個人で行ける場所ですが、日本語ツアーもありますので、ゆっくり安心して見学したい方はご検討ください。

【H.I.S】カンボジアの歴史を学ぶスタディツアー

トゥール・スレン博物館

行き方

ボンケンコンエリアからそれほど離れていませんが、少々分かりにくいので、トゥクトゥクを利用すると良いでしょう。

ドライバーに「トゥールスレン」と言ってもなかなか通じませんが、ガイドブックなどに出ているトゥールスレン博物館の写真を見せると「Okay,Okay!」とうなずいて、すぐ連れて行ってくれます。

4USD以上の料金を提示してきますが、市内からなら2~3USDに値切ってくださいね。

見学方法

見学方法入口で施設維持費として入場料(5USD)を支払います。

音声ガイドは有料(3USD)ですが、あった方が理解が深まりますので借りてくださいね。

オンカー(組織)」、「S-21(Security21:当時のトゥールスレンの呼び名)」は音声ガイドの中や、展示パネルに良く出てきますので憶えておきましょう。

元高校の建物を転用したこの施設は全部で4棟あり、入って右回りでA棟からD棟までありますので、ゆっくり順番に音声ガイドに従って見学してください。

以前は撮影禁止ではなかったのですが、現在は写真撮影は禁止されています。

でも、おそらく写真を撮る気にはなれないのではないでしょうか。

この施設に収容され、奇跡的に生還したチェン・メイさんが、ガイドを務めていらっしゃいます。

ワタシは偶然、プノンペン訪問直前にこの方が日本のテレビの旅行番組に出演されているのを見ました。

番組の中でインタビュアーが、

「チェンさんは、どうしてこの辛い場所でガイドをしているんですか。」

とたずねると、チェンさんは、

「二度とこうした悲劇が起きないようにするためさ。立場が違えば、もしかすると私も人をあやめていたかも知れない。人は過ちを犯すことがある。私は自らの体験を伝えて悲劇が繰り返されないようにしたいんだ。」

と言っていました。

ワタシも現地で実際にお目にかかりましたが、そのような悲劇にあわれた方とは思えないほど、気さくで明るい方でした。

なお、見学後、気分が悪くなった人は、構内のモニュメント前にいくつかベンチがありますので少し休んでくださいね。

現地には、当時の様子がハッキリわかるような場所もありますので、無理のない範囲で見学してください。

キリング・フィールド

トゥールスレンの収容者らは、チェンエク村の「キリング・フィールド」に連行され、処刑され、そして集団墓地に埋められました。

プノンペンから南東へおよそ15㎞離れたその場所は、現在博物館と慰霊施設になっています。

チェンエクは、カンボジア全土にある100あまりのキリング・フィールドの1つです。

行き方

プノンペンからトゥクトゥクを利用されるのが一番良いでしょう。

流しのトゥクトゥクは吹っ掛けてきますので、、ホテルのスタッフに「キリング・フィールドに行きたいので、トゥクトゥクと交渉してほしい」と告げると、ホテル周辺に待機しているドライバーと交渉してくれます。

復路のトゥクトゥクを独自で探すのは大変なので、往復でお願いしてください。

ワタシは18USDでしたが、20USD程度ならアリでしょう。

片道約40分程度ですが、とにかく途中の道が悪く、すごく揺れます。

着いたら「ココで待っていてください」と言うと、ちゃんと待っていてくれますよ。

暑い中待っていてくれていたので、気持ちとして帰りに水を買って差し入れると、帰りも気持ちよく運転してくれました。

見学方法

各国語のガイドさんもいらっしゃいますが、音声ガイドを聴きながら、ゆっくりまわれば十分だと思います。

音声ガイドは無料で借りられ、日本語もあります。

施設内には、子どもたちが、幹に打ち付けられて虐殺された「キリング・ツリー」など、思わず目をそむけたくなるような場所がありますが、すべて事実として起こったことですので、平和への願いを込めて、無理のない範囲で見学してください。

なお、見学の最後には、8,985柱の遺骨が安置された慰霊塔を訪れてください。

入口手前で花やお線香を配っていますが、ワタシたち日本人はお線香で。

寄付を渡して、お線香をあげてから、もう二度とこのようなことが起こらないように、心を込めてお祈りしましょう。

慰霊塔の中には日本の方からの、平和を願うメッセージもありました。

現地には、当時の様子がハッキリわかるような場所もありますので、無理のない範囲で見学してください。

ご紹介した2つのスポットは両方とも個人で行ける場所ですが、日本語ツアーもありますので、ゆっくり安心して見学したい方はご検討くださいね。

【H.I.S】カンボジアの歴史を学ぶスタディツアー

まとめ

旅行は、自分の知らないことを学べる最大の機会です。

そして、人間の歴史には、必ず「光」と「影」があります。

トゥールスレンの生存者であるチェンさんの、

「立場が違えば、もしかすると私も…。」

と語る言葉は大変重いものだと感じました。

ワタシたちは、「光」からも「影」からも学ばなければいけませんね。

Kaoru

ひとり旅が大好きなオフィスワーカー。
当サイトと 徒然なるママの365日 を運営しています。

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